俺が本当に生きてるかどうか確かめに行くんだ
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訳あって東京来ています
朝は築地で寿司食って
昼は秋葉原でゲーセンに引き籠もり(暇だった)
晩は一時間だけ夢の国へ
明日は朝7時から舞浜-浦安に行って来ます
理由は勿論…エンタングル!ゼーガロケ地巡りだぜ!!
イヤッフー
朝は築地で寿司食って
昼は秋葉原でゲーセンに引き籠もり(暇だった)
晩は一時間だけ夢の国へ
明日は朝7時から舞浜-浦安に行って来ます
理由は勿論…エンタングル!ゼーガロケ地巡りだぜ!!
イヤッフー
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自分は本当に自分なのだろうか、その疑問は誰もが一度は通る道である。
もしかしたら自分の見てる世界は誰かに管理されたシステムで、
自分はその中で生きている様にシュミレートされた幻なのかも知れない。
そういった世界観は「マトリックス」等でもお馴染みのもはや有り触れた設定である。
アニメ作品にも仄めかしているものは多いが、このジャンルがこんなにも増殖したのは
考えつき易く、お手軽に哲学してる雰囲気を醸し出せるから、という理由が考えられる。
エヴァブーム以来、何かを考えさせるタイプのアニメ作品が増えた。
エヴァは専門用語の連鎖で内容は無かったが、面白い事にその結末まで真似てしまった、
スカスカの粗悪品が乱発された(エヴァはそういう雰囲気を狙っていただけなので別)。
冒頭に戻るが、1ジャンルとして認識されるまでに膨れ上がったこのタイプの作品の中で、
形は違えど、良く取り上げられたテーマは「人の存在・自我」であった。
物事は全て0と1で表せるというデジタルな思考を前提とすると、肉体を自分が存在する
証明とするには弱い。では自分を自分と認識するのはデータ化の難しい自我ではないか――
そう、作中にも出てくる、有名なデカルトの「我思う、ゆえに我あり」である。
『ゼーガペイン』はそのテーマを一貫して駆け抜けた作品である。
先ほど言った様にこの手の作品は乱発されていて、優れた作品と評価するには
それらの量産型とは違う、何か具体的な差別点を見つけ出さなくてはならない。
「良かった、面白かった」では抽象的で、所詮主観的な視点を抜け出せない為である。
そこで、ひとまずこの作品を振り返る必要があるのではないかと思う。
まず注目するのはタイトルのゼーガペイン、これは『是我痛』を捩ったものと公式で言われている。
表題は「消されるなこの思い、忘れるな我が痛み」。この様に頻出する『痛み』であるが
データである主人公達には物理的な痛みはほぼ修復出来る為余り重要では無いので、
それが不可能な精神的な部分、データであっても自分を証明出来る自我の欠損を意味する。
作中の内容の重要な部分のほとんどを占めているのは、この『痛み』についてである。
まず僕が面白いな、と思ったのはこの『痛み』という表現の仕方だった。
主人公のキョウは中盤で肉体の有無を現実と虚構の分岐点と考え、悩み苦しむが、
終盤で彼は何故戦うのかというナーガの問いに対して「心が痛むから」という答えを出した。
これは言い換えると「生きる為に戦う」と捉える事が出来る。
なぜなら、痛みを感じるという事は生きているという事であるからである。
彼は悩んだ末その事に気付き、胸を張って答えた。物語のテーマがこの部分に詰まっている。
そこに行き着くまでのキョウの成長を長くに渡って描いたのもこの一言の為だと言える。
補足すると、作中での答えはその様なものだったが、実際はどちらが虚構なのかは分からない。
肉体はあるが自我の無いガルズ・オルムと自我はあるが肉体の無い幻体達の対比の様に、
何を生きている定義とするか、それについての完璧な解答は生まれないだろう。
しかし、その様な泥沼に嵌りそうな問題も「上腕二頭筋が怒り狂ってる!」で吹き飛ばすキョウを
見ていると、成長の描写に感心すると同時に、それこそが生きている人間だと納得出来させられる。
内容に考えさせられる反面、キョウの勢いでスカッと解決してしまうこのバランスこそが、
ゼーガペインという作品の魅力の一つなんじゃないだろうかと思ったワンシーンであった。
この手の作品にしては設定が分かり易く、うやむやなまま雰囲気で終わらせずに、
(本来なら当然だが)設定を視聴者に理解させた上で、テーマに絡めて行く姿勢にも好感が持てた。
ここまでは作中のテーマや設定を中心に着眼してきたが、
次に見る必要があるのは『アニメーション』としてのゼーガペインである。
ゼーガペインは俗に言うロボットアニメである。パッケージには緑色の大きな人型兵器、
おそらく見ようと思った人は誰しも迫力のあるCGの巨大メカ戦を期待した事だろう。
しかし改めて思う事は、果たしてゼーガペインはロボットアニメである必要があったのだろうか。
確かにホロニックローダーが無ければ色々都合が悪くなるし、そもそも完全な別物になってしまうが、
そういう意味では無くて、巨大ロボットを出した意味がやや薄い気がするという事である。
視聴した人なら分かると思うが、この作品の主軸は舞浜が舞台のヒューマンドラマ。
カミナギと会話する投影機になったり、舞浜サーバを運搬したり色々と便利ではあるのだが、
結局の所円滑に話を進める為のツールに過ぎない。それだとまだ良いのだが、
終盤ではガルズ・オルムの強力な兵器が、学生の投げた石に撤退するレベルの扱いなので、
先ほど述べた様な大型メカ路線の視聴者はさぞ失望したに違いない。CGも予算不足からか
やや動きの足りないのっぺりさを感じるものに仕上がっている。こればかりは仕方ないが・・
巷では散々に扱き下ろされているCGであるが、個人的には存在意義の方が気掛かりだった。
ただ、メカパートこそ平凡ではあるが、『魅せ方』については目を見張るものがあると言える。
これには作画面というよりは、演出面としての要素が大きいかも知れないが。
個人的に印象に残っている場面を例として挙げるのならば、18話の百合畑のシーンである。
コーカサス地方の伝説の百合の様に触れられない二人、戦闘により一面は燃え盛る百合、
キョウは燃えて空に散った百合の花を掴もうとするがすり抜けて触れる事が出来ない。
「私達、こんな風に散る事も出来ないんだね」「俺達は人間になるんだ、絶対に」。そしてED挿入、
背景には揺れる百合の花が――未見の人には想像し難いと思うが、素晴らしい出来だと思う。
ゼーガペインは終始寂しげな雰囲気を纏っている物語であるが、それ故かOPとEDも静かな感じで、
内容との完璧なシンクロを果たしている。その中でも特筆すべきは、上で挙げた18話同様EDである。
EDはリトルグッバイを主軸に、10話で使用されたand you、22話のラストブルーの3種類があるが、
盛り上がるラストで使われたリトルグッバイとラストブルーに共通して言えるのは、しっかりとした
ややハイテンポなリズムを組み込みつつも、静かな曲調を崩していないという事である。
先ほどシンクロしていると言ったが、これらはそれに高揚感を加えるのに大いに役立っている。
内容が駄作でもOPやEDの為に見続けるという行為は珍しいものではない。特にEDに関しては、
EDの出来次第で継続して視聴させようとする効果が生まれるので、非常に重要なのである。
この作品のファンの中でも、ゼーガペインの醍醐味はEDであると主張する人は少なくない。
このまま視点を完全に音楽面にシフトしてしまうのならば、BGMの評価は外せないだろう。
『光は痛みを超えて』『消されるなこの思い』『光の戦士』など、思い出すだけで目頭が熱くなるが、
それは、辛く悲しい現実を目の当たりにしながら、それを乗り越える彼等そのものだからであろう。
OPやEDも同じく、ここまで曲と作品の内容がマッチしている作品は無いと言えるかも知れない。
最後になるが、ゼーガペインという作品は当時、高校生ぐらいの人間に見て欲しい、
という思いで作られた作品らしい。確かに冒頭で述べたありがちな疑問は、
多くの青年の心を掴むだろう。しかし、それはあくまでも人を引き寄せる為に過ぎず、
真の狙いは「生きている事とは何だろうか」というテーマを彼らにぶつける事では
なかったのだろうかはと僕は考える。そのメッセージを主軸とし、哲学的な設定、
演出やBGMなどがほぼ完璧に機能してサポートした結果、この作品は存在している。
そう思えるほどの完成度の高いアニメ、それがゼーガペインだとこの感想を以って断言する。